第2回松山オープンダブルス大会
平成17年1月16日
於:松山コミセン
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〜風早の火事祭 なぜなぜ問答〜
Q : 「火事祭」と言われていますが、なぜですか?
     A  半鐘と太鼓をたたき、にぎやかにダンジリをかくので、俗に「かじまつり」と呼ばれていますが正しくは「ひのことのまつり」と読みます。神社に祭られている神様の名前(天火明:あめのほあかり)にその「いわれ」があり、自然の恵みに感謝することです。
Q : 神輿をかく時の「モーテーコイ」の意味は?
     A  神輿の通る道は決まっているので、かき手が氏子に対して「お参りに来なさいよ」即ち「詣でて来い」が「モーテーコイ」となりました。    松山地域の「モーテーコイ」も同じ意味なのでしょうか・・・・・???
Q : なぜ、神輿を石段の上から落として壊すのでしょうか?
     A  祭りに使う道具は「清らか」でなくてはなりません。一度使ったものは二度と使いません。あらゆる祭具の代表として神輿を壊します。来年、新しい神輿を造るために祭りの締めくくりとして壊し、これが宮入とされました。
Q : 大浜のお旅所では、なぜ神輿を海に投げ込むのですか?
     A  昔、大水により御神体が海に流されました。この御神体を猪木の住民とともに引き揚げ、仮宮にお祭りしたという故事に基づくもので、その姿の再現です。この時により神輿の渡御には「猪木大魔」がお供することとなりました。
 
中島最大の港「大浦港」を山頂から望んだところ
 松山市の北西約15kmに位置し、野忽那島・陸月島・中島・怒和島・津和地島・二神島の6つの有人島と22の無人島で形成されています。
 天平19年(747)年に書かれた「法隆寺伽藍縁起并流記資材帳」には「骨那島」と記載され牛馬の放牧場でした。室町時代から「中島」と呼ばれるようになり、当時は豪族の忽那氏が瀬戸内海上で水軍の雄として活躍し、瀬戸内海の制海権を掌握していました。江戸時代には、大洲・松山両藩に二分され、津和地島は参勤交代に向かう松山藩主の御茶屋が置かれていた経緯があります。
 島全体が瀬戸内海国立公園に指定されており、現在も未来も美しい海は財産です。観光では海水浴のほか、トライアスロン中島大会は全国的にも有名な大会となっています。また、基幹産業は柑橘栽培ですが漁業も盛んです。
 気候は温暖で日照量・降雨ともに瀬戸内海特有のもので、平均気温は15.8度、降雨量は1354.5mmとなっています。冬期に積雪を見ることはなく、みかん栽培に非常に適しています。中島のみかん栽培の歴史は明治6年に始まっています。営々と積み上げられた石積みや段々畑は、太陽と海からの照り返しと潮風にさらされ、みごとに甘いみかんを育てます。
 また、中島の海は潮流が速く、海底も起伏に富んだ地形のため、魚介類も豊富で新鮮で美味しい海の素材がふんだんに手に入ります。中島町では人々の暮らしが悠久の歴史と大いなる海という自然にとけこみ、生態系の一部として、守られ育まれているのです。
 
中島諸島(忽那七島)の位置関係
 
トライアスロン中島大会の様子
「最後の難関ラン(10km)。灼熱の太陽が容赦なく選手の体力を奪う。」 「壮観なスイム(1500m)のスタート」 「バイク(40km)の風景。島挙げての応援に選手も笑みをこぼす」
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